Qwertyの部屋

アコライト、時々、相談所。アヴァベルオンラインをプレイしつつ、バーチャルの世界からリアルを考えるブログ。

夢現を生きる 〜オンラインゲーム研究その8〜

こんにちは。Qwertyです。

 

今回の本はこちら。

 

現代ゲーム全史 -文明の遊戯史観から

中川 大地 著

 

550ページほどの分厚い本なのですが、意外と早く読み終わりました。

 

セガタイトー創始者が外国人であることなど、始めた知った事実も多かったほか、見田宗介の理想の時代、夢の時代、虚構の時代という区分に加え、宇野常寛が提起した仮想現実の時代、拡張現実の時代、そしてその後、つまり今の時代を〈複合現実の時代〉とし、この流れに沿ってゲームの歴史を語るという構成はとても面白く、気がつくと100ページ以上読んでいることもあったくらいですw

 

本書の中では、ゲームというものの始まりを、科学技術が原爆などあらぬ方向に用いられることへの抵抗、テクノロジーの平和利用という位置付けで語っています。コンピューターの進歩は軍事技術の進歩と表裏一体であるような話は聞いた事がありますが、改めてそのように言われると、何だかゲームというものの印象が大きく変わるような気がします。

 

本を読み進めるうちに、「複合現実」という言葉が妙にしっくりくるような感覚を覚えました。本来は仮想現実と拡張現実を合わせた概念のようですが、個人的には現実と非現実が合わさった時代、というような響きに聞こえたのです。

 

荘子は蝶になった夢を題材に、自分が蝶になった夢を見ているのか、蝶が人間になった夢を見ているのか、どちらが現実かはわからない、という話をしていましたが、複合現実の時代はまさにそのような時代なのかもしれません。

非現実の世界では、蝶に限らず、なろうと思えば何にだってなることができます。さらに言えば、私は「誰か」にも「あなた」にもなれますし、恐ろしいことに他の誰かもまた「私」になれてしまいます。その非現実が、現実の世界にまで侵食してきているのだとしたら。

荘子はまだ「人間であろうが蝶であろうが私は私」と思えていたでしょうが、現実と非現実が合わさることによってその「私」すらも曖昧になってきているのだとしたら。

夢と現実、自己と他者がごちゃ混ぜになった世界で、人はいかにして「私」として生きるのか。夢現(ゆめうつつ)の世界で人はいかにして現実感を保持できるのか。もしかしたら今までのように、私が「私」という個として生きる意味や必要性がない世界になっていくのではないか。私が「私」として生きるということが意外に難しいのはそういうことなのか。この本を読んでいて、そんなことをふと考えてしまいました。

 

そのうち、服を着替えるような感覚で、アイデンティティすらも取っ替え引っ替えするような世界になったとしたら…。そんな風に考えると、バーチャルの世界が少し恐ろしく感じます。

 

そろそろ買い溜めした本がなくなってきました。オンラインの世界について考えることはまだまだ続きますが、今後はゲームに関する本以外もご紹介していければと考えています(^ω^)

 

ではまた(*゚▽゚)ノ