Qwertyの部屋

アコライト、時々、相談所。アヴァベルオンラインをプレイしつつ、バーチャルの世界からリアルを考えるブログ。

相談所の所感 〜「解決策がある問題」の問題〜

こんにちは。Qwertyです。

 

相談所を定期的にやり始めて1か月が経ちました。

以前やっていた際はどなたも来られない日もあったのですが、今のところ1日1回はどなたかがいらっしゃっています。

 

嬉しい言葉をかけて下さった方もいらっしゃいましたし、やはり背景がわからないと相談しづらい、という方もいらっしゃいました。

 

私に関する情報をお話しした瞬間、お話を聞くのはQwertyという「誰でもない誰か」ではなく、その背後にいる私に変わってしまいます。TwitterFacebookではなくブログを使っているのも、同じ理由からです。もしかしたらお伝えした方がいいのかも・・・と思う事も無くはないのですが、今はこの「誰でもない誰かが話を聞く」という形態の可能性を探っていきたいと考えています。

 

相談には、大きく分けて2種類あります。一つは、具体的な解決策、もしくはヒントをお伝えすることができる場合。そしてもう一つは、解決策がない問題の場合。

 

後者の場合、ただお話を聞く以外に何が出来るのか…というところなのですが、

 

フロイトが言ったように、結局のところ私たちは、特別な不幸を「ありきたりの不幸」に変えることしかできません。

 

起こったことは変えられない。でも、その出来事の捉え方や、それに対する感情なら変えられるかもしれない。

 

私たちの人生には、数多くの不幸があります。「メロンパンが目の前で売り切れた∑(゚Д゚)」といった笑い話のようなものから、身内の不幸のようなものまで、そのレベルは様々です。

大抵の不幸は乗り越える事が可能です。その直後は悲嘆に暮れても、じきにそれを消化し、先へ進む。それを繰り返して私たちは生きています。

 

でも時には、とてつもない不幸が襲ってくることもあります。そのほかのものとは違う、とても乗り越えられないと感じるような、「特別な」不幸。何故自分にだけそんな事が起こるのかと、ぶつけどころのない怒りを抱え、絶望の底に叩き落されるような感覚に襲われます。

 

その「特別な」不幸を、お話をする中で、日々乗り越えているような「ありきたりの不幸」に変えることができれば、止まっていた時間が動き出し、再び歩みを進めていくことができる。「それくらいしかできない」とも、「そんなことができる」とも言えますが、それが「強くなる」という事なのではないかと、私は思います。

 

個人的には、前者の「解決策がある問題」の方に問題を感じています。

 

上記の話は、最低限の生活が保障されているという前提があってのものです。食事すらままならないような状況では、不幸を乗り越えるもなにもありません。

 

私たちの国にはさまざまなセーフティーネットがありますが、それで全ての人が「健康で文化的な最低限度の生活」を送れるかというと、なかなか理想通りにはいきません。

 

受ける側からしたらどんなサービスがあるのかよくわかりませんし、そもそも誰に相談したらいいのかすらわからないかもしれません。

福祉事務所や保健所など、提供する側からしても、押し売りするわけにはいかないですし、どの制度にも該当せず、結果なにもできないということもしばしば起こります。

 

それに、医療や福祉に関しては、利用できる資源にかなりの地域差があります。「こういうものがありますよ」とお伝えしても、それがその地域に存在しなかったり、あっても機能していなかったりした場合、そのアドバイスには何の意味もないばかりか、逆に不幸を一つ増やすことになってしまうのです。

 

明るい未来のビジョンが見えてしまうけれど、決してたどり着けないから、見ないようにする。「解決策のある問題」は得てしてこういう構図になりがちです。

 

それでも、この構図を変えるべく、今この瞬間にも数多くの方が努力されています。

千里の道も一歩から。私も出来ることを少しずつやっていくしかないのですが、それで少しでも良い方向に進んでいければいいな、と思っています。

 

ではまた(*゚▽゚)ノ