Qwertyの部屋

アコライト、時々、相談所。アヴァベルオンラインをプレイしつつ、バーチャルの世界からリアルを考えるブログ。

愛と諦め 〜他人への、そして自分への〜

こんにちは。Qwertyです。

 

愛。素敵な言葉ですよね。でも今回は、それを違う角度から語ってみたいと思います。

 

キリスト教では、無償の愛が説かれています。汝の敵を愛せよ。右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ。

 

・・・そう言われても・・・( ̄▽ ̄;)

 

って思いますよね。思いますよね、というか、私は少なくともそう思いました。

 

世の中いい人ばかりではありませんから、敵を愛したとしても、それをいいことにどんどんつけ込まれてしまうかもしれませんし、左の頬を差し出してもまた殴られ、命を失うことになるかもしれません。所詮ただの絵空事に聞こえましたし、ある意味気持ち悪くも感じていました。

 

でも最近、ふと別の見方が思い浮かんだのです。

 

この「愛」とは、「諦め」に基づくものなのではないか、と。

 

こちらが愛していれば相手も分かってくれる、という話を聴くと、性善説に基づいている思想のように感じてしまうのですが、考えてみれば人間とは原罪を抱えた存在。そもそも「完全に良い」存在にはなれないのです。

 

人はどこまでも堕ち、どこまでも醜くなりうる存在。だからこそ、どこかで人の業に対する諦めが必要。それこそが、キリストが処刑される前に発した「彼らをお許しください」という言葉の意味だったのかもしれない…。

 

そんな風に考えて「キリスト教」「性悪説」と検索ワードを入力してみると、こんな記事が見つかりました。

 

求めない、期待しない。性悪説でいい――キリスト教が教える対人関係の奥義 | プレジデントオンライン

 

ああ、やっぱりそうだったんだ、と思いました。

人という存在の限界を知っているからこそ、それに諦めがついているからこそ、相手を受け入れ、愛することができる。「愛」とだけ聞くとキラキラしすぎていますが、諦めと裏表の関係にあるとするなら、何だか受け入れやすくなったように感じます。

 

しかし、それを実践するためには、もう一つ壁を越える必要があるのです。

 

それは、相手だけでなく、自分もまた、どこまでも堕ちる、原罪を抱えた人間という存在であることを認める、ということです。

人間は他人を批判することで、自分の負の側面を他人の中に投げ入れ、自分を保とうとします。自分の中にはマイナスのものは何一つないかのように。

地動説や進化論、無意識の存在によって3回もその尊厳を傷つけられてもなお、人間は特別な存在であろうとすることを止めません。人間は他の何かとは違う、特別な存在である。自分は他の人とは違う、特別な存在である。もしそうでなかったら、人間という存在は、自分という存在は一体なんだというのか…。

 

でも結局は五十歩百歩。たとえ本当に五十歩分の差があったとしても、根底の部分に差はありません。自身の完全性という幻想を諦め、そして相手の不完全さをもまた諦める。その上にこそ、愛は成り立つのだと、私は思います。

 

もっとも完全に諦めてしまったら、それは愛ではなく「厭世」、ただの世捨て人になってしまいます。自分と他人、そして人間という存在の限界を胸に刻みつつも、相手を受け入れることは諦めない。人間の負の側面から目を背けたキラキラの「愛」でも、負の側面のみを見てしまう「厭世」でもなく、その中間の愛。言うは易しでしょうが、これが実践できれば、もう少し世の中は暮らしやすくなるかもしれません。

 

今年のブログはこれが最後です。皆さん良いお年をお迎えください。

ではまた(*゚▽゚)ノ