Qwertyの部屋

アコライト、時々、相談所。アヴァベルオンラインをプレイしつつ、バーチャルの世界からリアルを考えるブログ。

「普通」という壁

こんにちは。Qwertyです。

 

突然ですが、「普通の人生」と言われたら、どんな人生を思い浮かべますか?

 

両親に育てられ、1歳頃に歩き始め、2歳になれば喋り始め、そのうち保育園や幼稚園に行ったりして友達もできて、小学校に入学、地域の活動などにも参加して、中学校に進学して、勉強もして部活もして、高校生になって、大学に行って、就職して、結婚して、子供ができて、それなりに昇進して、子供が大きくなって、孫ができて…

 

といった感じでしょうか。

 

ではもう少し細かく見てみましょう。

生後4か月で首が座り、8か月で座ることができる。このころ人見知りが起こる。10か月でつかまり立ち、1歳~1歳半で歩けるようになり、2歳で2語文を話す。3歳で三輪車に乗れる。4歳で体重が生まれた時の5倍になる。保育園や幼稚園では集団に混ざれるかどうか。小学校に入ってからは友達ができるか。いじめられて学校に行けなくなったりしないか。勉強で躓いたりしないか。通学路で事故や犯罪にあったりしないか…。

 

こうやって細かく見ていくと、キリがなくなってしまいます。

さらに言えば、精子卵子が受精してから、特に大きな異常なく赤ちゃんが生まれてくるまでには驚くほど多くの過程が存在しています。

 

そう考えていくと、「普通」に生きることが至難の業であるかのように思えてきますよね。実際にはそこまで大きな問題に遭遇せず、「普通」に生きている人が大多数ですし、だからこそそれが「普通」と呼ばれているのですが(そうでなければ「奇跡」と呼ばれていることでしょう)…。

 

 逆に、大多数の人が生きている人生=「普通」の人生と考えると、そちらの方がしっくりくるかもしれません。最初から「普通」があるわけではなく、何となくの平均をそう呼んでいるだけ。おそらく順番としてはこちらなのでしょう。

 

ですから当然、「普通」の人生を送れる可能性は高いわけです。上記のようにあれもこれも心配するのは、杞憂と言われても仕方がありません。逆に、「普通」よりも上の人生を送ろうと努力しても、せいぜい「普通」の上の方に多少移動するくらいが関の山でしょう。まあ何が上かはいろいろと議論のあるところでしょうが…。

 

ほかの人から羨ましがられるような「普通じゃない」人生を送る人もいれば、逆の人もいます。病気、事故、天災、人災…。不幸は一瞬のうちに「普通」を奪い去ってしまいます。それでも、周囲の人が手を差し伸べてくれたのなら、その不幸も少しは緩和されるかもしれません。では、それすらもなかったとしたら…。

 

社会の中では、社会に適応しようとする姿勢を見せるものには手が差し伸べられ、自ら社会から外れるような行動をとるものは排斥されます。まあ当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが、「ではなぜわざわざそんな行動をとるのか?」という疑問はなかなかわいてこないのではないでしょうか。

 

愛を知らずに育ったがゆえに行き過ぎた行動を取ってしまったのかもしれません。もしかしたら精神を病んでいたのかもしれません。

社会規範に悖る行動を取ること自体は問題ですし、たとえどんな理由があっても許されるわけではありませんが、それをただ「どうしようもない奴だ」「人格がゆがんでいる」といった言葉だけで片付けてしまうのは早計に過ぎるでしょう。 

 

人生には、それこそ受精卵となったその瞬間から、様々な落とし穴が待ち受けています。しかし、文明の進歩とともにその落とし穴は徐々に人々の意識から遠ざかっていき、ついにはそんなものなどないかのように思えるまでになっています。

 

「どうしようもない」「人格がゆがんでいる」と言われる人物と同じ境遇で育ったとしたら、本当に自分はそうならなかったのか。もしかしたらその人たちは、落とし穴にはまらなければ、もしくはその穴から救い上げてくれる人さえいれば、そうはならなかったのではないか。

杞憂の逸話のように空が落ちてくることを考える必要はありませんが、人生において起こりうる問題を「杞憂」と片付けずに再認識することは、そういった人たちと接する上でとても重要だと、私は思います。

 

今や様々なところに壁ができている時代。壁の向こうは文字通りの「あの世」であり、そちらの人間は「この世」の人間から見れば死者のように不気味で、理解できず、恐ろしい存在となっています。その壁を取り払えないまでも、太陽が沈んでまた昇るように壁の両側を行き来しやすくできたのなら、世の中ももう少し平和になるのかもしれません。

 

ではまた(*゚▽゚)ノ