皆で見る夢、その中での自分 ~オンラインゲーム研究その7~
こんにちは。Qwertyです。
長らくご無沙汰しておりましたが、ようやく読み終わりました。もはやオンラインゲーム研究って何だっけ?状態ですが…w
今回読んだのはこちら。
LIFE ON THE SCREEN
Sherry Turkle著
結構昔の本ですが、それなりに有名なタイトルです。日本語版は謎に高価な中古品しかなかったので、英語版を取り寄せることとしました。
これが出版されたのは1995年。現在のゲームのように画像が洗練されてきた時代ならまだしも、こんな昔にすでにMUDの中での結婚や性行為の話題が議論されていたというのは新鮮な驚きでした。
コンピューター上の生物は生命とみなせるのか、生命とみなせなくても会話などやり取りのできる「相手」とみなせるのか、などと色々と面白い話題は出てくるのですが、中でも印象に残ったのは、ゲームの中の自分とはどのようなものか、という話題でした。
その話題の中で、MUD(Multi User Dungeon)の中の自分は、自分の人格の中で現実世界には登場できない部分が現れている、という話が出てきます。
本の中で語られているように、一人の人格の中にも様々な面が存在しています。話をする中で「本当の自分がわからない」という言葉を耳にすることも珍しくなくなってきたのですが、そういった方には、本来人格の中には「これが本当の自分」というものはなく、色々な部分がありながらも何となくそれが一つにまとまっている、くらいのものだというお話をしています。本の中では、コンピューターの画面上に複数のウィンドウが開いていて、それらを切り替えるようなもの、という表現がなされており、言い得て妙だと感じました。
人格の中には様々な面があるとは言っても、それらをすべて表現できるわけではありません。社会で生きる上ではどうしても特定の役割を期待されてしまいますから、それにそぐわない面は、日常生活においては心の奥底にしまい込む必要が出てきてしまいます。
でもMMORPGの世界では、 何か特定の役割を与えられているわけではありませんから、そういった制約を受けずにふるまうことが可能です。だからこそ、普段は抑え込んでいる自分、例えば女性なら攻撃的な面、男性ならば女性的なやさしさ、そういったものが出てくるのではないか、という話に至るのです。
MMORPGの世界はいわば、皆で見ている夢のようなものなのかもしれません。各々が自分の望む姿になり、なりたい自分になって他者と触れ合える、そんな「夢」の世界。明晰夢というのは、このような感じなのでしょうか。
それはあまりに魅力的であるがゆえに、夢と現実はしばしば逆転してしまいます。MMORPGの中での自分が現実の自分であり、現実世界の自分は仮の姿、そんなふうになっていくと、ネットの世界に埋没してしまい、依存という文脈で語られることになってしまいます。
でも興味深いことに、MUDの世界に一度埋没することにより、自らの課題を克服した事例がこの本の中では語られています。
著者はエリクソンのモラトリアムの概念を援用し、現実世界にモラトリアムがなくなった今、MUDの世界がその役割を果たしていると述べています。色々試して失敗から学ぶ、ということはどんどんやりづらくなっていますが、バーチャルの世界でならそれも可能、ということのようです。現実の世界で失われつつある機能をMUD、MMORPGの世界が補完しているとしたら、とても興味深い話ですね。
現実世界の私とこの世界での私を比べると、あまりやっていることには違いがないのではないかと思ってはいるのですが、もしかしたらどこかに抑圧された自分の一面が顔を覗かせているのかもしれません。他のギルメンの皆さんはどうなんでしょうかね…。
覚めない夢はいずれ悪夢に変わります。でも夢を夢だと気付き、その世界の中でしか得られない体験を自らの財産とすることができたのなら、逆に大きな成長につながる可能性もありそうです。バーチャルの世界が現実世界にどんどん進出してきているこの時代では、いかに2つの世界をうまく行き来するかが大事なのでしょう。
ではまた(*゚▽゚)ノ