Qwertyの部屋

アコライト、時々、相談所。アヴァベルオンラインをプレイしつつ、バーチャルの世界からリアルを考えるブログ。

進行型人生から創発型人生へ 〜オンラインゲーム研究その6〜

こんにちは。Qwertyです。

 

今回で4冊目。意外と読書が進んでいますw

 

ハーフリアル

ー虚実のあいだのビデオゲーム

イェスパー・ユール著

松永伸司訳

 

久々の日本語(≧∀≦)

ゲームの定義について、様々な見地から検討されている本です。

 

ユールの述べるゲームの定義は以下の6つ。

 

①ルール

②可変かつ数量化可能な結果

③可能な結果に割り当てられた価値

④プレイヤーの努力

⑤結果に対するプレイヤーのこだわり

⑥取り決め可能な帰結

(P.50-51)

 

ルールは文字通り。ルールがなかったらゲームとして成り立ちません。

「可変かつ数量化可能な結果」は、三目並べが例として挙げられていますが、まず結果が可変、つまり常に引き分けとか、常に先手が勝つとか、そういうことにならないということが必要です。さらに結果がきちんと比べられるものであることも必要とのこと。

プレイヤーはより望ましい結果を求めて努力しますし、その結果にある程度「こだわり」も必要です。

 

最後の「取り決め可能な帰結」は若干わかりにくいです。政治や選挙などはゲームに例えることも可能ですが、現実のそれは「強力な取り決め可能でない帰結」(P.57)が待っているのでゲームとは言えないとのこと。帰結が取り決め可能であるためには「そのゲームをプレイするのに必要な運用と指し手がほとんど無害である必要がある」(P.57)とも述べられています。

 

例えば、カバオゲームズはゲームです。①~⑤までは明らかに満たされていますし、「負けたらこういう罰ゲームをする」という帰結も任意に取り決めることが可能です。でももし、カバオゲームズが「負けたら必ずアカウント抹消」という取り決め可能でない帰結をもつとしたら、これはゲームでないということになるのでしょう。

 

もう一つ面白かったのは、進行型ゲームと創発型ゲームについての話です。

 

創発とは、「多数の低次の実体が相互作用することから生まれる高次のパターンを意味するものとして使われることが多い」(P.105)とのことで、例として意識やアリの巣が挙げられていました。

そこから転じて、創発型ゲームとは「ルールは少数しかないものの、それらが組み合わさることで多数のゲームツリーが生まれる」(P.104)タイプのゲームを指しており、「目標とみなされるゲーム状態が多数ある」ようです。

 

進行型ゲームでは、プレイヤーはゲームデザイナーが設定した通りに物事を進めていく必要があり、そこから逸れてしまうとゲームオーバーになります。「正しい道よりも間違った道の方が多い」(P.102)とも書かれています。

対して創発型ゲームにおいては多種多様なプレイが発生し、デザイナーの予測を超えた「創発的ゲームプレイ」が起こる余地もあります。

 

以前読んだ本の中に、ゲームの物語性を評価するのか、純粋なゲームの体験そのものを評価するのか、という話が共通して登場していたのですが、そのまま対応しているわけではないにしても、前者は進行型ゲーム、後者は創発型ゲームに何となくあてはまるような印象を受けました。

 

上記のゲームの定義を考えると、人生での出来事には取り決め可能でない強力な帰結が付いて回るので、人生をゲームとみなすことはできません。でも、ゲームでもやっているかのように、遊んでいるかのように人生を謳歌している方々がいるのもまた事実です。

もしかしたらこういった方々は、普通「有害」と感じるような指し手、例えば資産や社会的地位、ひいては身体そのものへの攻撃や被害、そういったものを有害と感じることがないのかもしれません。普通ならゲーム続行不能になるほどのダメージでも軽々と回復できるだけの力があるのか、ダメージを受ける・与えることに対して何も感じない精神状態なのか、理由はわかりませんが…。

 

そのような人生を送ることができるのなら、人生について思い悩まなくて済むかもしれません。ただ、逆に喜びも虚しさに変わってしまうかも。勝っても負けても「所詮ゲーム」となってしまうと、何だかやる気が出ないですよね。

 

そして人生をゲームに例えるとしたら、創発型よりは進行型ゲームに近いでしょう。

 

教育は幼児を通り越し、生まれる前から始めるようになりました。英才教育を受け、出来るだけ名声のある学校を受験し、より良い会社に就職する。そしてスキルを磨いて昇進もしくは転職し、さらなる成功を掴む。結婚し、次世代に何を残せるかを考えつつ、老後の蓄えもする…。

成功した人生を送るため、生まれてから死ぬまでずっと、ゲームデザイナーが設定した「クリア手順」から外れないように必死にプレイし続ける、といった様相を呈しているように感じます。

 

よく人生は物語に例えられますが、それも人生が進行型に近づいているからなのでしょう。

ゲームに関する本を何冊か読んで一番強く感じたのは、人生をそれほど一続きに考えなくてもいいのではないか、ということです。

 

物語は一続き。点と点は繋がって線になる必要があります。過去は今のためにあり、今は未来のいつかのためにある。そしてそのいつかはさらに先のいつかのためにある…。一体いつ休めるのか。その「いつか」はやってくるのか。死ぬまで休めないのではないか…。そんな気にすらなってきます。

 

どこの誰かもわからない、もしかしたら人間ですらないかもしれないゲームデザイナーが設定した、本当にあるかどうかもわからないゴールに向かって走らされるよりも、創発的ゲームプレイ、つまり本来意図されていないやり方で人生というゲームを楽しむ事ができたなら、この呪縛から解き放たれることができるかもしれません。

 

ゲームデザインがあまりに強固なので、創発的ゲームプレイを行うのは簡単なことではないでしょうが、挑戦する価値はあると思います。

 

進行型人生から創発型人生へ。また一つ考えるべき事が増えました。

 

ではまた(*゚▽゚)ノ