Qwertyの部屋

アコライト、時々、相談所。アヴァベルオンラインをプレイしつつ、バーチャルの世界からリアルを考えるブログ。

「やりたい事がない」の意味 〜相談所の所感2〜

こんにちは。Qwertyです。

 

先日、タイトルの通りのご相談を受けました。内容は守秘義務があるのでお話しできませんが、悩みの構造が今の社会を表しているように感じましたので、この文言だけ抜き出して記事にすることにしました。

 

「やりたい事がない」というのは、文字通りやりたい事が何一つないわけではなく、「本当はやりたい事があるけれど、それは実現できそうもなくて、でも他にやりたい事も見つからない」が縮まって「やりたい事がない」になっているケースが多いようです。

 

もしこの「本当はやりたい事」が100%叶わない夢なのであれば、諦めて他の道を探す事が出来ると思うのですが、「可能性は無限大」などと謳われてしまうと、どうしても「もしかして出来るのでは…?」という思いを捨てきれません。

 

子供の頃の私たちは万能感の塊です。タレント、スポーツ選手、医者に弁護士、ノーベル賞を取れる研究者。ウルトラマン仮面ライダーセーラームーンプリキュア。何にだってなれると、本気で思っていました。

 

でもだんだん、実際はそうではないことに気付きます。ヒーロー・ヒロインに変身できないのはもちろん、勉強も運動も、自分の得意不得意がわかってきます。これは出来るけどこれは出来ない。あれになりたいけど多分無理、でもこれにならなれるかも…。そうやって無限大だった可能性が徐々に削られ、最終的に何となくの道筋が見えてきます。

 

でも現代社会では、その万能感を徒らに助長している節があります。夢を持たせることは確かに大切ですが、叶わない夢を見させ続けることほど残酷な事はありません。

 

以前も書きましたが、

「やれば出来る」という言葉は諸刃の剣。その裏返しは「やらないから出来ない」であり、出来ないことがさもその人の怠慢であるかのような意味合いにもなりかねません。その刃は未来を切り開くこともあれば、心をズタズタに引き裂くこともあるでしょう。

 

私たちの能力は有限です。色々な可能性を試し、何度となく壁にぶつかる中で、私たちはそれに気付きます。例えるなら、真っ白なキャンバスを端から塗りつぶしていくようなもの。これを経て最後に浮かび上がってきた図が自分の進む道なのであって、最初から道があるわけではありません。

この作業をする機会がなければいつまでたっても道が浮かび上がって来ず、立ち往生したままになってしまいます。「出来ないことに気づけ」というのは傲慢に聞こえるかもしれませんが、覚めない夢はいつか悪夢に変わります。悪夢の中を彷徨い続けるよりは、厳しい日差しの下で生きた方がいい。そうやって自らの経験を伝えていくことも、先達の大切な役割だと私は思います。

 

これは「夢を持つな」という意味ではありません。色々な世界があることを伝え、キャンバスを大きくしてあげることで、自分では気づけなかった可能性にたどり着くこともありますから、様々な夢の形を伝えること自体はとても大切です。でも、それを必要以上に押し付けることは、不幸な結果を招きかねません。

 

ひょっとすると、

「キャンバスが真っ黒に塗りつぶされた場合はどうすればいい?」

と思われた方もいらっしゃるかもしれません。

 

もしかしたら、白い絵の具を渡すことで新たに道を描き出すことができるかもしれません。でも、黒が濃すぎて白が吸い込まれてしまうような状況ではそれも難しいでしょう。

もしかしたら、キャンバスの側面や裏面に道があることに気付くかもしれません。でもそれが決して日の当たらない道だったとしたら、それを勧めることが正しいのかどうか、私にはわかりません。

 

現状では、その真っ黒なキャンバスの中にその人なりの図を見出す手助けをするくらいしかできることはないでしょう。でも、何度でもキャンバスを塗りなおせたり、何枚でもキャンバスが作り直せたりするような世界になればその限りではありません。それが一体どういう世界なのか、また考えていこうと思います。

 

ではまた(*゚▽゚)ノ