Power Gaming、囚人のジレンマ、強者の論理 ~オンラインゲーム研究その4~
こんにちは。Qwertyです。 今回で3冊目。ご紹介するのはこちらです。
Play Between Worlds
Exploring Online Game Culture
T. L. Taylor
EverQuestというオンラインゲームをプレイしながら、その世界について研究していた方の本です。読みながらいくつか思った事があったので、2回に分けて書こうと思います。
今回は、Power Gamingについて。
日本語訳はなさそうなのですが、ざっくりいうとやたらと効率を重視するようなプレースタイルのことで、中にはチートまがいのことをする人もいるのだとか。「勝つこと以外何も考えていない」なんて表現もされていました。
私自身は、自分をPower Gamerだとは思っていないのですが、カンストのために4時間プレイした日もありますし、狩パーティーに入るときはなるべく効率の良さそうなところを選びますから、完全に該当しないかと言われると、必ずしも否定しきれないかもしれません。まあその程度でPower Gamerというのなら、かなりの人が該当するような気もしますがw
Power Gamerが問題になるのは、効率性を重視するあまり、ゲームの楽しさをぶち壊しにしてしまうような行動を取ってしまう時です。中でも、チートもしくはそれに準ずる行為が発生した場合の影響は甚大です。苦労しないと手に入らないアイテムを簡単に大量にゲットできたり、考えられないようなステータスを得ることができたり、ということをされたら普通にプレイするのが馬鹿らしくなってしまいますし、そんな状態ではゲームそのものが成り立ちません。「何とか運営の目をかいくぐってやる(ΦωΦ)フフフ…」と考えているプレイヤーは、もはやそのゲーム自体を楽しんでいるとは言えないようにも映ります。
著者はPower gaming自体が問題だとは思っていないようで、ゲームの目標は人それぞれなのだから、効率よく目標を達成していくという楽しみ方があってもいい、と述べています。私もそう思いますし、実際にある程度強くならないと楽しめないという部分もありますから、あくまでルールの範囲内で、ではありますが、効率を追い求めるのは決して悪いことではないでしょう。
そう、「ルールの範囲内」では。
前回の記事で、読書によって考える材料を集める、ということを書きましたが、
色々なことを考えつつも、その根底には一つの思いがあるのです。
それは簡単に言うと、もう少しこの世界が過ごしやすくならないかな、というもの。
上記のPower gamingのようなことは、現実世界でも頻繁に起こります。個人もしくは特定の団体の利益を追求するあまり、「それ、ありなの…?」というような行動に出ることは珍しくありません。
それは時に他者を傷つけ、そして自分をも傷つけ、最終的には後戻りのできない負のスパイラルに陥る結果となります。
初めの頃は、ただ皆がルールを守って過ごせるようになれば、ギスギスしない世界に近づいていくと思っていました。でも、色々と学んでいくうちに、事はそう単純ではないということに気付いたのです。
「ルール」というと、普通は文章化されたようなものを指すと思うのですが、その中には「道徳的にふるまう」ということは必ずしも含まれません。アヴァベルでも、団体戦で本気で勝ちにいくならなるべくキルしやすい相手、つまり一番弱いキャラクターを狙うことになりますが、騎士道・武士道には反することとなるでしょう。
上記の「皆がルールを守ればよい」という話は、皆が道徳的にふるまえばよい、という意味合いになるのですが、道徳的にふるまいなさい、と人に強制することが本当にできるのだろうか、という考えに至ったのです。
これは何も「本当に道徳的なことなんて誰にも決められないのだ」という元も子もないことを言いたいのではありません。「道徳的に、ルールを守って生きていれば、必ずいいことがある」と他人に伝えることが偽善になりはしないか、ということなのです。
ただまっすぐに生きている人と、ルール違反にならない範囲でいろいろと策略を巡らせている人が戦ったら、普通は後者が勝ちます。その時、前者には「人間ができている」などの誉め言葉はあっても、それ以上の補償はありません。「勝てば官軍負ければ賊軍」「馬鹿正直」「お人よし」などという言葉があるのには、それなりの意味があるのです。自分の子供が前者になって喜んでいる親に対して「それは偽善ではないのか、なぜもう少しうまくやるように言えなかったのか」と言う人がいたら、それを論破する自信は私にはありません。
これって囚人のジレンマそのものですよね。
囚人のジレンマは、囚人同士が話し合うことができないため、結果としてお互いに裏切りあうことが最適解となってしまうというもの。ある程度の範囲であればこのジレンマを乗り越えることが可能ですが、全世界のレベルになると非現実的ですし、会社と会社、同じ会社の中の部署間レベルでももしかしたら難しいかもしれません。囚人のジレンマを乗り越えるには、囚人が多すぎるように思います。
これが一つ。
もう一つは、「ルールを守れ」というのが強者の論理なのではないか、という話です。
昔、ファイナルファンタジータクティクスアドバンスというゲームがありました。特徴的な戦闘システムとして「ロウ」というものがあり、戦闘において「〇属性禁止」などのルールがいくつか課されます。それに違反する行動を取ると戦闘から退場になってしまうばかりか、ステータスダウンなどのペナルティが課されることもあるというなかなかシビアなもの。「なんでこんな面倒なシステムを作ったんだろう・・・(ーー;)」と何度思ったことか・・・。そのため海外版では一部のロウが緩和されたようです。
でも、街中で攻略本を見かけた時、その帯のところに「ロウはとても強力な武器」のような文言が書いてあったのです。その時は「いやそんなわけないでしょ」と思ったのですが・・・。
最近、これって現実世界にも当てはまるんじゃないのかな、と思うようになったのです。「法律ほど強力な武器はない」と、社会の上層部の人々が言っているのではないか、と。
まああくまで「思った」だけなのですが、今のルールの中ではにっちもさっちもいかない人がいる状況で、ただ「ルールを守れ」と言っても、それはその人が適応できているからそう言えるだけ、強者の論理だ、と言われるとなかなか厳しいものがあります。
全ての花が咲けるほど、この世界に土地はありません。
もともと自然界は弱肉強食ですし、かっこうの托卵のように、「道徳」「ルール」というものを当てはめたら「違反」になりそうなものはあふれかえっています。人間の世界はあえてそれを「道徳」「ルール」で縛っていて、恐らくそれは種の生存において適応的であったはずなのですが、現時点では100%それらを遵守する戦略が最適解だとは、残念ながら思えないのです。
恐らく「完全に争いのない世の中に」というのはただの夢物語。でもただそう言って諦めてしまうのは嫌なので、少しでも過ごしやすい世の中にするにはどうしたらいいのか、ということを日々考えています。
もともとは自分がそういう世界で生きていきたくないから、というエゴから始まっているので、偽善といえば偽善かもしれません。「醜い争い」を嫌うのはそうしなくても生きていけるからなのかもしれません。でも、それを自覚した上で、そのエゴを推し進めることで楽になる人がいるのなら、それはそう悪いことではないでしょう。
全員が分かり合えなくたって、意見の合わない人同士がparallel play、互いに関心を持たずに過ごせるようになれば、もう少し平和になるかもしれません。そのためには世界が何個かないといけないでしょうが、ゲームの世界のようにいくつもサーバーやチャンネルがあって、全く同じ世界が複数あるような状況が作れれば・・・?とか、いろいろと空想を広げています。
ではまた(*゚▽゚)ノ